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「エビちゃん」と聞いて、マクドにかぶりつく蛯原 友里(えびはら ゆり)を思い浮かべる人はいたとしても、エビちゃんがかぶりつく「えびフィレオ」の中に入っているエビ自体を連想する人はいないだろう。
何故なら「ちゃん」とは、「さん」のしたしい呼び方であり、「ちゃん」や「さん」は、人につくものと相場が決まっているからだ。「ちゃん」や「さん」を人以外につけるとしたら、せいぜい「お地蔵さん」、「お稲荷さん」くらいのものであって、この場合も擬人化された対象物に対しての話である。
そもそも、人である「エビちゃん」の場合でも、長い期間メディアが繰り返し「エビちゃん」、「エビちゃん」と連呼する事ではじめて、エビちゃん=蛯原 友里という認識が個々の頭の中で定着するに至っている。
だから、僕が関西に転校してきて間もなかったた頃に、祖母に笑顔で
「あめちゃん、あげよか?」
と言われて、ポカンと思考停止してしまった事は、無理のない話である。
関西の人が飴玉を「あめちゃん」と呼ぶ事は、東京の人も知っているかもしれない。しかし、それは、大人であるから知っているのであって、小学生位の時には知らなかったはずだ。
僕も当時は、その予備知識がなかったので、「あめちゃん」と言われた時は、理解ができなかった。祖母が僕を子供扱いして、赤ちゃん言葉を使っているのかとも思った。あるいは、祖母が痴呆症にでもなってしまったのかとさえ、思ったりもした。
だから最初のうちは、「あめちゃん」という言葉を使っているのは、うちの祖母だけかと思っていた。それが関西スタンダードだと知るに至るまでには、それから暫くの時間の経過を必要とした。
そういえば祖母は、「お粥さん」とか「お豆さん」という表現もよく使った。
そういった呼び方の由来には、食べ物を大切にし、感謝しようという意味合いもあるのかもしれない。そう考えれば、愛らしく、素晴らしい事にも思えてくるが、それを言い出してしまうと、食べ物全てに、さんづけをしなければならなくなる。
まあ、それでも、関西のおばちゃんが飴の事を「あめちゃん」と言う分には、にぎやかそうで、微笑ましい。しかし、それ以外の人は、この問題に対してどう取り組むべきなのだろうか。
中学生位の時というのは、自身の外見やしゃべり方等にも、意識をしだす年頃だ。ツッパっている人の口から、「あめちゃん」と発されたのでは、ちょっとずっこけそうになってしまう感覚はある。
僕の周りでは、意識的に「あめちゃん」から「ちゃん」を抜いて、「あめ」と呼んでいた人もいたように思う。彼らにとっては、飴を「あめ」と呼ぶほうが、間抜けな感じがして違和感があるはずだ。それでも、かっこをつけるために、無理してそう呼んでいたのだ。
思い出すと、なんだかかわいらしくもある、青春時代の一コマだ。