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日本の小学校生の中で、一番多く登校したのは誰か?
その事を考えたとき、その答えに一番近かったであろう人は、小学校6年生の時の僕じゃないかな、と思う。
それは、東北の小学校の短い夏休みと、関西の小学校の短い冬休みを過ごしたからだ。転勤が決まったのは、12月だった。
でも僕は、転勤が決まったと聞かされた時も、せめてあと少しだけここに留まりたいと思った。
何故なら三学期早々に、隣接する小学校をも含めた、クラス対抗の球技大会が予定されていたからだ。
そのスポーツにおいて僕はめっぽう上手く、僕がいなければ、クラスの勝利は危うい。
だから、ひょっとしたら、小学校の担任の先生が両親にかけあってくれて、僕を先生の家に居候させてくれるのではないか。もう長い付き合いだし。
勝手にそんな妄想を描いた事もあった。でも遂に、その願いが叶う事はなかった。
ところで、転校を前にする気分って、どういうものなのだろう。
僕にとっても幼稚園以来だ。始めてのようなものだ。
でも、僕の場合は、少なくとも皆の前で涙を見せる事はなかった。
いたって冷静を装っていた。
休み時間に、クラスで涙を流してくれた友達もいたけど、僕は泣かなかった。
一番の仲良しの友達が、母親と一緒に家まで挨拶に来てくれたけど、その時も泣かなかった。
勿論悲しかったけど、泣くのはかっこ悪いと思っていた。
転校していった子は、しばらくするとクラス宛に近況を知らせる手紙を送ってよこしたりする。
最初に小学校の先生が皆の前でその手紙を読んで聞かせて、後で、後ろの掲示板に張り出したりする。
クラスを爆笑の渦に巻き込む傑作の手紙もあるし、わりとそっけないものもあったりする。
だから、僕は良い手紙を書いて、皆の爆笑をとりたいなと思っていた。そしたら、割と長く掲示板に張られている。だから、僕は、転校する前から、その手紙の文章の骨格は頭に描いていた。内容はもちろん、クラス対抗の球技大会だ。
そういえば手紙といえば、小学校の作文の時間には、父の日か何かに、「お父さん」をテーマにして、手紙のような作文を作らせられた事もあった。
僕の場合は、
このままずっと東北で暮らして下さい。そして、ここに家を建ててください。
という内容だった。
まあそれが叶わない願いであろう事は、子供心にも解っていたし、強制的に書かされたものだったから、それが100%本心を表していたわけでもない。
それに、小学校の低学年じゃあるまいし、父親に対してそういう手紙を書くこと自体が照れくさかった。まあ、いずれにしても、書かなきゃいけないから、他に書くこともないから書いた訳だ。
だから、父親からのリターンは予期していなかった。
しかし、それを読んだ父親から、それは出来ないと、即効で言われた事を憶えている。
少年の気持ちをくんで、ぼやかすわけでもなく、はっきり言われた。
僕としては、はい、そうですか。位のものだったけど、やはり辛い事だな、と思った。予定されている別れが、いつかは来るという事だった。周りの社宅の人達がやがて転勤していくように、うちもその例外ではなく、100%いつかは転勤するという事だった。
「うちの子に限って」という言葉があるけれど、人間は信じたくない事に対して目をつぶってしまう部分がある。それが自分にとっては、転勤だった。しかし、親から、必ず転勤があるという事を言われる事で、その事実を改めて認識した。
大好きな友達と分かれる事、好きな子に会えなくなる事。にわかには信じられない、信じたくない事だったけど、本当にそういう時が来るという事だった。死刑囚と無期懲役囚とを別つ、厳正な事実がそこに横たわっているという事だ。本当にそういう世界が待ち受けているという事だった。
そして、本当にその時が来た。
でも、僕は本当にあのクラス対抗の球技大会に出たかった。
そして優勝してヒーローになって、あの子のハートを射止めたかった。