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小さな子供には、「恥ずかしい」という概念が無いように思われる。
例えば、ミニプールで水遊びをするとき。
入浴をするとき。
彼らは「裸を見られて恥ずかしい」とは、思っていないので、裸のところを写真に撮られても大丈夫だ。そして、それは同時に、他の人が裸を見られた時に、「恥ずかしい」と思う感情や心理も理解していないという事を意味する。
東北での社宅時代は、社宅に風呂はついていた。しかし、アパート用の大浴場も使えるようになっていて、そちらの方が広くて快適だから、毎日のように利用していた。
小さい頃は母親ともよく一緒に行っていたが、ある日、僕が先に着替え終わったので、入口付近で母親を待っていた。そしたら母親が、「僕が見ているからそこのお姉さんが恥ずかしがって脱衣できない。」という旨を言った。
それで、僕は「折角待っててあげたのに!」、と思いながら、走って家に帰った。
でも、それからも暫くは、女子浴場に通っていた。(笑
それが僕にとって最初の「恥ずかしい」だ。
でも、もっと明確に「恥ずかしい」という概念を知った日の事も覚えている。
たぶん小学校一年生の頃だったと思う。集団登校の時だ。
僕は歌を歌いながら、楽しく歩いていた。
すると、一学年位上の女の子に、「歌を歌いながら歩く事は恥ずかしい事だ」という事を言われた。
そこで、確かに言われてみれば、周りの人は、誰も歌っていないという事に気が付いた。
そしたら、何だか急に恥ずかしく思えてきた。そして、もうそれからは歌わなくなった。
でも、その場でその恥ずかしさを理解できるというのは、ある意味不思議な気もする。何故なら、学習して初めて恥ずかしさを理解するのであれば、恥ずかしさを実感できるようになるまで、タイムラグがあるはずだからだ。
でもそれは、よく分析してみると、「集団登校時に歌いながら歩くのは恥ずかしい」という事を即理解したというよりも、「周りの誰もしないことを一人するのは恥ずかしい」という感情だったのかもしれない。
それは多分、「はだかの王様」の話を学んだ後だったのだろう。
では、歌も歌わずに、小学生は何を考え、何をしながら歩いていただろうか。皆つまずかないように、下を見ながら黙々と歩いていた姿が思い出される。これは県民性なのだと思う。少なくとも、楽しく会話を楽しみながらという感じではなかった。この無口な習慣は、僕自身にかなり影響したと思う。
まあ、いずれにしても、「恥ずかしいという感情は、学習するものだ」と結論づけて良いと思う。
ただ、それは絶対的な物ではなくて、社会の慣習や取り決めに拠る、という事も同時に言えると思う。
先の裸の例で言えば、アフリカには、未だにトップレスの部族の人もいる訳だ。そこには、裸は恥ずかしい、という概念は無い。だから、彼女達に裸は恥ずかしいと教えても、胸を隠す事はしないだろう。
結局のところ、恥ずかしいとか、奇異に感じるとか、笑っちゃうほどこっけいだ、という感情は後天的なものであって、地域性があるという事だ。
他人が感じるこの感情には、後に転校先で随分苦しめられた。