[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
関西人は、自分達が訛っているとは絶対に認めない。
じゃあ、その言葉は何なのかときくと、「関西弁だ。」と言う。
辞書を見ると、方言とは、「標準語と違う、なまりのある言葉」で、
なまりとは、「くずれた発音」とある。
そして、弁とは「言葉づかい」で、方言とは「ある地方の言語の全体、なまりのある言葉」なっているから、
結局、関西弁とは関西の言葉づかいという事になり、関西弁=関西訛り=訛りと考えて良いものかどうか、いまいちわからない。しかし、東京弁という言葉もあるから、関西の言葉を関西弁と呼ぶ時点では、それがなまりを意味するものとは限らないようにも思える。
確かに関西弁の場合は、東北弁等とはちがって、「くずれた発音」の単語がなく、50音に沿っている。しかし、標準語とは、言葉づかいとイントネーションが全く違う。名詞のアクセントに至っては、全てが正反対と言っても良い位だ。
ただ、昔は関西に首都があった事は事実であり、そういう意味では、関西弁は、時代遅れの旧い標準語とも言えるわけだ。いずれにしても、他の都市の方言とは格が違うわけで、関西人が関西弁にプライドを持つのもわからないでもない。
だから、「関西弁なまっていない説」を支持してやっても良いのだが、その事で問題が起こるのが国語の時間だった。
さすがに関西でも、国語の教科書で使用されている言葉は標準語だ。
標準語は、標準語のイントネーションを伴って、初めて標準語として完成する。しかし彼らは、教師も生徒も、皆一様に関西弁のイントネーションで教科書を朗読するのだった。
これは大問題だ。
普段の日常生活では、関西弁を使う事ができたとしても、標準語を関西弁のイントネーションで朗読できるかというと、それはまた別次元の話になる。標準語の言葉づかいでは、自然に標準語のイントネーションの方に流れてしまうのが、標準の日本人というものだ。
したがって、朗読の際は、関西弁風の抑揚を文につけ、単語のアクセント/イントネーションも全て関西版にするという変換作業を瞬時に行い、声に出さなければならなかった。しかも僕の場合は、頭の中に、標準語以外に東北弁も入っている。もうほとんど、頭の中がパニックになりそうだった。
運悪く単独指名で朗読をさせられようものなら、クラス中の笑い者になる事は必至だ。
仮に僕が東京出身だったとしたら、そんな事で悩んだりする必要はないのに。
「東京では、こういうイントネーションで読むんだよ。」
と言ってやれば良い。朗読中に笑われはするだろうが、後でバカにされたりはしない。
しかし、僕の場合は違った。
絶体絶命だった。
俺は浜村淳じゃねえと、心の中で叫んだ。