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ある日僕は、奇妙な事に気付いた。
両親は二人とも関西出身なので、夫婦間の会話は、関西弁だ。
地元の人と話す際はどうしていたかというと、父親の場合は、モロに関西弁だった。
工場でなまりの強い人としゃべる時は、「通訳」をたてる事もしていたようだ。と言っても、地元出身の人で、標準語も話せる人に、間に入ってもらうだけだ。
一方、母親の方は、PTAに参加したり、買い物をしたりと、地元の人と接する機会が多い。だから、母親なりに、日本語を色々勉強していたようだ。朗読のボランティアに参加したりして、正しい日本語を学ぼうとしたようだ。
だから地元の人と話す際も、可能な限り知っている東北弁を取り入れつつ、標準語で話す姿勢だったように思う。
担任の先生にも、「お母さんは、東北弁と標準語を上手く使い分けて、綺麗な日本語を話すね。」
と、褒められた事を憶えている。
一方の僕の方はどうかというと、幼稚園から東北にいるから、100%正確な現地の言葉をしゃべるわけだ。
だから、友達との会話は勿論東北弁だし、兄との会話もそうだった。
では、家庭内の会話は、どうだったか。
我が家では、セミ標準語的な言葉を使っていた。しかし、親の返答は、関西弁だ。でも、よく考えてみると、ちょっと奇妙な光景だと、子供心にも思ったりした。
標準語といっても、当然訛っている部分はあったわけだが、自分が無意識にしゃべった言葉を振り返ると、何だか訳が分らなくなる事もあった。
この日本語って一体何なんだ、何で自分はこういう言葉を喋っているんだと、思ったのだ。ドラえもんやサザエさんの主人公達が喋る日本語とも、ちょっと違うように思ったりして。要は、確信を持てない、想像上の東京弁だったのだ。
ただそれは、最も自然な妥協点だったんじゃないかとは思う。本当の東北弁をしゃべっても、親は内容を理解してくれる訳がない。社宅のご近所さんの中には、将来を考えて、家では絶対に東北弁をしゃべらせない、という家庭もあったようだ。
逆に家の中で、関西弁をしゃべるだけの動機もスキルもなかった。当時の僕にとって関西弁というのは、あくまで「お笑い芸人が喋る言葉」だという感覚があった。だから、自分が使う言葉とは到底思えなかった。
それで、明石家さんまが、関西弁をお茶の間向けに分りやすくした「さんま語」を喋ったり、あるいは、現在でいえば、ダウンタウン等のお笑いタレントが、全国放送の際に、自身のキャラクターをまもりつつ、標準語とも適度に迎合した関西弁を喋っていたりする事は、至極真っ当な成り行きだと思う。
要は、ニュアンスも含めた自分の伝えたい内容が、全ての人に理解されれば良いのだ。その事で会話の目的を果たし、言葉の面白さも伝わるわけだ。
だから、そういう事は、テレビ以外の世界でも当然許されるものだと思っていた。
でも実は、日本の社会はそういうのを許してくれないのだ。
特に子供の世界は。